毎年受験シーズンになると、ニュースでとりあげられる「学問の神様」。
北野天満宮は、京都上京区にある菅原道真公をおまつりする天満宮です。なんと、全国に1万2000社ほどある天満宮や天神社の総本宮なのです。
地元の人からは、親しみをこめて「北野さん」とか「北野の天神さん」と呼ばれています。
北野天満宮が建てられた経緯とは
藤原氏全盛の平安時代。周り中藤原氏だらけの中で、非常に切れ者だった菅原の道真公はどんどん出世を重ねます。しかし、政争に敗れ、最終的には左遷先の太宰府でこの世を去ります。
道真公の死後、様々な不幸が続き、その時代の治世は混乱します。
たとえば・・・
平安京で疫病が流行
異常気象の発生
道真公の政敵だった藤原時平が病死
醍醐天皇の皇子・孫が病死
醍醐天皇の孫が病死
平安京の清涼殿に落雷
こんなことが立て続けに起こったのです。
そうした経緯があって、道真公の御霊を鎮めるために、最初は太宰府に天満宮が建てられます。
それでもまだ災難が続いたため、京都にも天満宮が建てられました。
これが、北野天満宮のはじまりなのです。
1000年以上も前に建てられた天満宮
このお話は、平安時代の出来事ですから、軽く1000年以上も前のお話です。
菅原道真公の死後、平安時代のちょうど中頃の947年(天暦元年)に、多治比文子(たじひのあやこ)という京都に住んでいた少女や近江国(現在の滋賀県)の比良宮の神主である太郎丸に託宣があったため、菅原道真公をおまつりする神殿が建てられました。
それからちょうど40年後の987年(永延元年)、国家平安を祈念するため、一條天皇によってこの神殿に勅使が派遣されました(これを勅祭と言います)。その際に、一条天皇から「北野天満宮天神」という名前が贈られました。
その後も朝廷から厚い崇敬を受け、二十二社の一社ともなりました。二十二社は、当時、天変地異や国家の重大事が起こった時に特別に朝廷から奉納を受けるなど、特別な扱いを受けていた神社の社格の一つです。
江戸時代から現代に至るまで
時代は下って、江戸時代。読み書き算盤を教える寺子屋が普及しはじめると、各寺子屋に天神様がまつられたり、道真公の姿絵(御神影と言います)が掲げられ、学業成就・武芸上達が祈念されるようになります。これが、現在「学問の神様」「芸能の神様」と広く敬われるようになった経緯です。
ご利益を求めて全国からやってくる参拝客は受験シーズンの風物詩にも
北野天満宮でまつられている菅原道真公は、書道において、弘法大師や小野道風と共に「天下の三聖」と称されました。道真公自身も藤原氏一族ではないのに自身の才能と努力で大臣にまで登り詰めました。こうした経緯から、江戸時代になると全国の寺子屋でまつられ、学問の神様として親しまれてきたのです。
そしてそれは今もなお続いています。毎年、受験シーズンになると、全国各地から合格祈願で多くの参拝客がやってくるのは皆さんがご存じのとおりです。
学業以外にもご利益がたくさん
実は、北野天満宮のご利益は、学業成就だけではありません。
菅原道真公の御霊を鎮めるために建てられた経緯も手伝って、「厄除け」「除禍」「雷除け」といったご利益もあります。そして、病気平癒、衆生救済、滅罪といったご利益も。
このあたりは、道真公が太宰府で亡くなった経緯とその後の都の混乱を考えると理解できるところですね。
さらに、就職や立身出世、学芸・芸能・技芸・技術の向上、文筆・和歌の上達といったあたりは有名なご利益ですね。こちらは、昇進を重ねていた道真公自身の功績を思えば納得できるところです。
全国に1万2000社もある天神様をまつった神社
江戸時代から現在に至るまで、天神様は学問の神様・芸能の神様として広く信仰されるようになりました。人々の信仰心はなかなかに強いものがあり、全国各地に道真公をおまつりした神社がたてられ、現在もなお、天神様をおまつりした神社や天満宮はたくさんあります。天満宮・天神社・北野神社・菅原神社といった名称で親しまれていますが、その数、およそ1万2000社にのぼると言われています。北野天満宮は太宰府の天満宮と並んでその総本宮となっているのです。
北野天満宮の基礎情報
名称:北野天満宮(きたのてんまんぐう)
所在地:京都府京都市上京区御前通今出川上る馬喰町
主祭神:菅原道真公
相殿神:中将殿 – 菅原高視(道真長子)、吉祥女 – 道真正室
まとめ
学問の神様として広く知られている菅原道真公と道真公をまつっている北野天満宮は、学業成就や立身出世だけでなく、厄除けや病気平癒、衆生救済など、多くのご利益があります。その御利益の規模の大きさは、全国に1万2000社もある道真公をおまつりした天満宮や天神社の総本宮らしいとも言えますね。